2019年 7月31日 会津若松 山本覚馬と新島八重 兄妹の生誕の地跡を訪ねて

・ 山本覚馬と新島八重 兄妹の生誕の地跡を訪ねて、会津若松へ2019年7月31日に行ってきました。
・ 【生誕の地への案内です】
・ 生誕の地跡は、市内米代(ヨネダイ)2丁目に在ります。
・ 会津若松駅より神明通りを鶴ヶ城方面へ向かい約3㎞(タクシーで1,300円程度)の距離にあります。
・ ① 城の反対側に『山本覚馬・新嶋八重 生誕地』への道標が建っています。
・ ② その小路を進むと、右側に案内板と石碑が建てられています。
・   案内板(*1)には『山本覚馬・新島八重 生誕の地』と記されています
・   石碑には、『山本覚馬 新島八重 生誕の地』の文字と、鶴ヶ城の開城に際して詠んだとされる
・   『和歌』が刻まれています。設置場所は、宮崎様宅の前です。
・   (宮崎家と山本家や同志社の関係は未確認です。)
・ ③ 更に進むと『山本覚馬・新島八重 兄妹の生誕地』の案内板が設置されています。
・   この案内板には私たちの見慣れた、新島襄先生と八重夫人の顔が描かれています。
・   設置者は会津若松市と記されています。
・                       (投稿・写真提供: 野村榮次(昭和46年卒))

(注*1)案内板の文言 ↓
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・   山本覚馬・新島八重生誕の地
・  会津藩士・山本覚馬(1828〜1892)は、砲術師範で日新館教授。1864年、藩主の京都守護職
・ 就任に伴い、京都に移住。鳥羽・伏見の戦いで囚われるが、その識見を買われて、維新後に
・ 京都府顧問となり、京都の近代化に貢献する。1875年、新島襄と同志社英学校(現同志社大学の
・ 前身)を創立した。
・  覚馬の妹・八重(1845〜1932)は、砲術が得意で、白虎隊には八重が指導したという若者も
・ 入隊した。戊辰戦争では自ら鶴ヶ城の籠城。城明け渡しの前夜、城壁に『明日の夜は何国の
・ 誰かながむらん なれしお城に残す月かげ』と簪(かんざし)で刻んだ。
・  1871年、兄を頼って京都に転じ、1876年に新島襄と結婚。同志社女学校(現同志社女学校の
・ 前身)の舎監を務めた。兄同様に、京都でキリスト教に入信。ともに洛東・若王子の同志社墓地
・ に眠る。
・  なお、この碑は、この近辺にあった旧山本家を記念するため、宮崎家のご支援を得て建立し、
・ 1989年5月30日に除幕した。
・                                   学校法人 同志社
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